『自由放任資本主義の実態』
福島第1原発1号機の運転開始は1971年3月、事故が起きた時はちょうど40年だった。原子力発電所の耐用年数については、日本を含めほとんどの国で法的な寿命制限はない。アメリカでは原子力法により当初は運転認可を40年としていたが、規則を変えて今ではほとんどが60年の運転計画になっている。
福島だけでなく、日本で現在稼働している原発には70年代に建設されたものも多い。廃炉には膨大な費用がかかることから運転が続けられているが、コンクリート建築のビルでも耐用年数は50~60年である。原発は高温や高い放射線量、冷却水や蒸気と、状況が全く異なり、福島だけでなく、日本全国にある原発の老朽化についてますます不安がつのる。廃炉や廃棄物の処理まで計算した原子力発電がどれほど高コストになるのか、そして多くの人の健康や命を犠牲にしなければ成り立たないほど危険なものなのか、エネルギー政策立案において政府はそのコストを国民に公開するべきである。
アメリカでは大恐慌以後に造られた道路や橋、公共建造物が近年寿命を迎えている。2007年には60年代に造られたミシシッピ川にかかっていた高速道路の橋が崩落し、多くの死傷者を出した。ニューヨークの高速道路も老朽化により、いつ重大事故が起こっても不思議はない。しかし財政赤字に苦しむアメリカ政府は、こうしたインフラへ十分な予算をとっていない。
日本も原発だけでなく、公共投資が最大の関心事だった高度成長期に造られた数々のインフラがこれから一斉に老朽化していくであろう。その点検や保守費を日本政府はどこから捻出するつもりなのだろうかと思う。
社会が資本家によって動かされるようになると、資本家にとってもっとも価値があるのはお金であるため、環境や労働者、そこで生活する者の安全などは後回しになる。なによりも利益が優先されるようになり、お金以外で価値があるのは、換金できるか、またはお金を生み出すことができるものとなるからだ。これが自由放任資本主義の姿であり、その目的はできるだけ多くのお金を、すでに多くの富を持てる人々へ移動することとなる。
このような社会が確立すると、多くの富を持つ人々と一般国民の両方が求める政策を政府が実行することは難しい。より正確にいうと、政府は富と権力を持つ人々にコントロールされているから、さまざまな決定をパワーエリートの利益を優先して行うようになってしまうのだ。これが自由放任資本主義であり、その前提でみれば今日本で起きていることが明確に理解できる。
電力に話を戻せば過去30年で日本の発電電力量が2倍になった。しかし1980年、日本はすでに十分豊かな社会を築いていた。30年で「より便利な生活」が一般国民に与えられたかもしれないが、権力と富を持つ人々はそれ以上の利益を手にした。それを維持する、または増やし続けるために電力消費を減らそうとする動きが阻止されている。
原発災害に直面した日本が選択する道はより少ないエネルギーで暮らすことだ。しかしほころび始めている自由放任資本主義を維持したい人々はそれを許さない。