広河隆一氏のハラスメント、被害女性が実名手記

広河隆一氏のハラスメント、被害女性が実名手記
毎日新聞 2019年1月31日 17時00分(最終更新 2月1日 01時44分)

 フォトジャーナリストの広河隆一氏(75)が月刊誌「DAYS JAPAN」編集部の女性スタッフに性行為や裸の写真撮影を強要したとされる問題で、広河氏によるパワハラやセクハラを毎日新聞の取材に証言した女性(ウェブ記事はこちら。紙面は1月20日朝刊社会面)が、毎日新聞に改めて実名で手記を寄せた。

 この女性は英国在住で大学客員研究員の宮田知佳さん(31)。20代のころに正社員として編集部で働いた。手記のタイトルは「性犯罪の温床を作り出したデイズジャパンの労働環境」。編集部で過酷な長時間労働やハラスメントがまん延していた実態を詳述し、広河氏の性暴力が長年にわたり隠蔽(いんぺい)されてきた背景を分析している。実名公表の理由については「社会に埋没した自分でもなく、会社の単なる歯車でもない、個人としての『私』をもう一度取り戻したい」としている。

 手記の全文は以下の通り。【宇多川はるか/統合デジタル取材センター】

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性犯罪の温床を作り出したデイズジャパンの労働環境

 私が株式会社デイズジャパンに入社したのは2014年の冬であった。その年に英国の大学院を卒業し、以前からの夢であったジャーナリストとしてスタートできたことに、私だけでなく家族も喜んだ。北海道から不慣れな東京へ行く飛行機のなかで雑誌「DAYS JAPAN」を食い入るように読み、メモをとっていたことを今でも鮮明に覚えている。

 19歳から英国へ留学し、大学そして大学院へと進み、夢であったジャーナリストを目指してエディンバラのラジオ局で働きながら学業に励む日々を過ごした。10代の頃から社会問題に関心があり、「DAYS JAPAN」はよく読んでいた。広河隆一氏の大方の本を読んでいた。写真だけではなく、言葉の力強さ、権力に恐れずに立ち向かう姿勢、それら全てに大きな憧れを抱いていた。

 デイズジャパンの採用が決まったとき、初任給の手取りは19万円ということ、裁量労働制であること、週末は基本的に休みであることなど、ひと通りの労働条件に関することがメールで伝えられた。私は英国で学業を修めたことと、北海道から上京後の生活費を考えると、給料の面で少々物足りなくも感じた。しかし、自分の夢への第一歩と考え、それらの条件をのんで前に進むことを決意した。

 入社当日は編集の流れの説明などオリエンテーションから始まると思い込んでいたが、雑誌の校了が近いこともあり、社員全員(といっても私を含めて6人)があくせくと忙しそうにそれぞれの仕事をしていた。営業1人、総務1人、経理1人、編集は私を含めて3人という小規模なオフィスで、オリエンテーション抜きの仕事が始まった。

 私は、他の編集の方に頼まれてインタビューの文字おこしや校正の作業をこなした。気づくとすでに午後10時半頃であった。私が会社をでる直前、広河氏が顔をだし「頑張ってね」と私に言ったのを覚えている。寡黙な印象を受けた。私が会社をでるとき、総務以外まだ全員会社に残っていた。帰宅は午後11時を回っていた。

 入社して数日が過ぎたころ、次号のための編集会議が3日後にあるから企画をだすよう編集長に告げられた。そのとき私は、入社したばかりで企画案を出せることに、一瞬、心が弾んだことを覚えている。慣れない仕事の中、合間を縫って一生懸命企画を考え、さまざまな写真をチェックした。帰宅時間は大抵終電ギリギリであった。

 編集会議の当日は、広河氏の前で編集長、編集員1人そして私の3人が社長室で企画を出し合った。広河氏にそれぞれが企画を出し、その一つ一つを彼がチェックするというやり方で、事実上の編集長は広河氏であった。私は、「肥満と飢餓」というタイトルで初めての企画をだした。米国や英国の肥満の問題とアフリカ諸国での飢餓の現状を対比して描き出すことが狙いであった。

 私がだした企画を見て、広河氏は私に、「1週間、何してたの?」という内容のことをいらだちを隠せない様子で問いただした。「こんなの全然ダメだよ」と言い放ち、ほかの企画に対してもダメだしをはじめた。はじめは穏やかに話していたものの、段々と怒りのボルテージが上がりはじめた。企画の内容を私が説明しようとすると、「そんな言い訳は聞きたくない」といらだちながら広河氏は言った。そのあと編集部全員を怒鳴りつけていたのを覚えている。

 編集会議の後で、編集部の一人から「ああいうときは口答えせずに黙っているのが一番だ」と念を押された。口答えをするつもりはなく、ただ説明をしようとしただけなのに、おきゅうを据えられた気分になった。

DAYS JAPAN編集長だった広河隆一氏=東京都世田谷区で2009年8月7日、武市公孝撮影

 その日の夜、広河氏がオフィスにやってきた。おもむろに「何やってるの?」と広河氏は私に聞いた。私が「インタビューの文字おこしです」と答えると、広河氏は「そんなこと家でもできるでしょ。もっと他にやることがあるでしょ」と怒りはじめた。「どれくらい(文字おこし)できたの?」と彼は私に聞き、できた内容をみせると、「遅い、たったこれしかできてないの」という内容のことを言った。さらに「あなた仕事できないんだから、寝ないでやるくらいの気持ちで仕事に取り組まないとダメだ」と言った。確かに初めての作業も多かったため、作業が遅い自覚はあった。その頃から、広河氏が怒るのは「作業が遅い自分の責任だ」と思うようになった。広河氏本人の意図は別にしても、彼による洗脳は社員の自尊心の破壊から始まっていた。

 その後も、「自分をもっと客観的に見られないとダメだ」「遅い」などと言われ、しまいには「いつでもクビにできる」「もし君の実力を知っていたら、雇うことはなかった」「試用期間で2カ月与えられているから、ラッキーだと思いなさい」などと脅しが始まった。入社して1カ月もたっていない頃だった。せっかく上京したのに今辞めると全てが水泡に帰すと思い、解雇されると生活できないという恐怖が頭を駆け巡った。そんな状況下で自責の念も加わり、自分で考える力が次第に奪われ、感覚が麻痺(まひ)しはじめた。

 ある日、午後11時を回るころ広河氏がオフィスにやってきた。憤慨した様子で一人一人の作業の進捗(しんちょく)を確認し、「こんなんじゃ全然ダメだ! デイズは終わりだ!」と叫び始めた。その後、すぐに「売り上げをいってみて」と営業の女性社員に指示した。社員は軍隊で命令を受けたかのごとく、雑誌の売り上げを全員に伝えた。広河氏は、営業で危機感が足りないとさらに怒鳴りはじめた。私の隣で泣いていた社員に向かって広河氏は「明日から来なくていいから」と言い放った。私も含めて全員が嵐を過ぎ去ることを願い、ただ沈黙していた。私は、その日終電を逃し、漫画喫茶で休養を取らざるをえなかった。

 編集長は、広河氏の言動に何かを言うことはまずなかった。それどころか、私が「広河氏の罵声に耐えられない」という内容のメールを編集長に送ると、「たまに大きな声をだすことはありますが、理不尽なこととは別段思ってはおりません」と返ってきた。広河氏のパワハラがあまりに常態化し、会社にとって日常であり、「理不尽ではない」と会社全体で容認されていたといえよう。今思えば会社全体が洗脳されていたのかもしれない。

 1カ月もしないうちに、私は徐々に終電を逃すようになり、近くの漫画喫茶で休養をとり、朝を迎えるようになっていた。福島や沖縄の人々の権利を擁護するという大義のためには、自分自身の犠牲は致し方ないと思い込むようになっていた。週末の出社も当然となったが、それも「(作業が遅い)私の責任だ」と思っていた。

 終わることのない作業と長時間労働、そして広河氏の罵声。罵声を聞くたび吐き気がするようになった。体調もどんどんと悪化した。生理も止まり、胃痛で眠れない日々が続いた。食べる時間も取れず、食欲は激減した。

 北海道から引っ越しをして数週間たったが、部屋には引っ越しの箱が積み上がったままであった。洗濯をする時間もなく、身に着ける下着も服もなくなった。ほかの社員に「洗濯はどうしているのか」と聞くと、営業の社員は「この前は生乾きの下着を着ていた」と告白した。ほかの社員からは「下着を洗ってオフィスに干せばいい」と理解しがたいアドバイスをうけた。

 そんな中、ある日の週末に一人で写真の編集作業を私がしていると、広河氏がオフィスにきた。機嫌がよさそうであった。「頑張ってるね」と言うと、広河氏が写真の配色に関する指示を出し始めた。はじめは私の後ろで腕を組んでいる様子であったが、段々と顔が近づき、私の手に自分の手を重ねマウスを動かし始めた。いつ機嫌が変わり罵声が飛び始めるかと思うと恐怖にかられ、頭が回らなくなり、身体が動かなくなった。「お手洗いに行ってきます」と言って重なった自分の手を解放するために、多少の時間がかかった。

 その翌週、はじめて給料をもらった。上京してから自炊や洗濯の時間もなく、余計な出費が増えていた。初任給で少し楽になるかと思ったら、手取りは16万円を切り、はじめに伝えられた給与額から3万円以上も不足していた。裁量労働制なので、残業代が給与に含まれているのはある程度覚悟していたが、深夜手当もなかった。家賃や光熱費・食費など全てを給与から引くと赤字であった。初任給で世話になった両親に何か買ってあげたいと考えていたが、諦めるしかなかった。

 生活が底辺に落ちても、一人で会社に対して抗議をする勇気も気力もなかった。それどころか、給料が少ないのは「作業ができない自分のせいだ」と思っていた。今考えるとおかしな話である。

 のちに総務の方との会話でわかったのだが、デイズジャパンで残業代や深夜労働手当をもらっている人は当時誰もいないとのことだった。ほとんどの社員がタイムカードをつけていない理由が初めてわかった。労働時間が管理されているわけでもなく、残業代や深夜労働手当もでないので、タイムカードをつけても無意味なのだ。初月の私の残業はおおよそ140時間以上で過労死ラインを優に超えていた。

 大みそか前日の12月30日も、深夜を過ぎてからの帰宅であった。帰宅後も胃痛と吐き気がし、翌日の仕事のことを考えるだけで眠れなくなった。午前3時を過ぎてから、北海道の家族に電話をした。「自分の責任なのはわかっているけれど、もうきつい、限界。あと3~4時間後に仕事に戻れる気がしない」と泣きながら家族に言った。翌日、家族の一人が私のもとに駆けつけた。

 その日、オフィスに家族を伴い、なけなしの勇気と気力を絞って、労働環境がひどく労働基準法が守られていないと広河氏に話した。しかし、広河氏は「そんな事実はない」と言い、最終的には「うるさい、でていきなさい」と私だけでなく同行した家族にまで怒鳴り散らした。

 広河氏に反省の色は全くゼロであった。隣にいた編集長はただただ黙ってこちらを見ていた。家族のアドバイスにしたがって私は辞職を決意をした。

 今回、広河氏の性的暴行が明らかになった。広河氏個人の特異性はしっかりと糾弾されるべきである。しかし、それと同時に、「ブラック企業」とも言うべき労働環境がその温床の一つとなっていたということを、どうか知ってほしい。

 広河氏は、編集や営業に関わる社員に罵声を浴びせ、萎縮させて自尊心を奪ってきた。会社もそれを黙認してきた。たび重なる長時間労働は自分で考える力を奪い、「大義のための自己犠牲」は致し方ないという精神構造を作り上げ、社員の高い志を潰してきた。抗議の声を上げることを擁護する立場のデイズジャパンが、自らの足もとにいる社員たちの尊厳と権利を奪い、働けなくなるといとも簡単に使い捨てたのである。

 こうした状況で社員は会社に従順な奴隷となり、理不尽なことにノーと言えない状況が生まれ、性暴力という最悪の状況が長年にわたり覆い隠されてきた。性的暴行を受けたあとですら「ダメな自分の責任だ」と自分を責めるようになる。ちょうど私が「仕事ができない自分」を責めたのと同様である。

 そんなデイズジャパンで、私は一度も一人で声を出すことができなかった。私のジャーナリストになるという思い描いた夢は、地獄のような職場環境で目の前から姿を消した。広河氏から性暴力を受けた人たち、辞めた後もうつなどの後遺症を抱えている人を思うと心が潰れる思いである。

 最後になるが、私は手記を出すのに実名か匿名かで最後まで悩んだ。当初はバッシングを恐れ、匿名を希望していた。でも、今回の広い意味での「#MeToo(私も被害者)」を通して、長時間労働やパワハラ、セクハラは自分のせいではなかったと自らに言い聞かせ、匿名にする必要も逃げる必要もないという思いが募り、実名を使う決心をした。それにより、社会に埋没した自分ではなく、会社の単なる歯車でもない個人としての「私」をもう一度取り戻したいと、自らを奮い立たせている。連帯はいつも、私たちのような小さな個人が声を上げ、それに共感していくことから始まると強く感じている。(了)