ジャパン・ソサエティー

ジャパン・ソサエティーは、日露戦争でロシアという大国を相手に互角に戦った日本の存在を無視できないと思ったアメリカの実業家たちが、今後、両国が相互理解を図っていくためにはどのような組織があればいいかを日本の有識者と話し合って立ち上げたものです。今でこそ、「ソサエティー」という名称には違和感を覚えるところもありますが、当初は現在のような劇場施設をもっていたわけでもなくて、学者や文化人や政財界人といった指導的立場にある人たちに交流機会を提供するというのが主な活動でした。それに併せて生け花などの日本文化を紹介するイベントをホテルで催すとか、あるいは、少し変わったところで言うと、アメリカ人が日本に旅行するパッケージツアーを旅行会社に初めて企画させたのもジャパン・ソサエティーでした。

現在のジャパン・ソサエティーの基礎がつくられたのは、第二次世界大戦後、1952年にチェースマンハッタン銀行の頭取だったデービッド・ロックフェラー三世が理事長に就任してからです。53年にはパフォーミングアーツ部が発足し、そして芸術文化のプログラムのプロデュースに力を入れるようになります。1971年には吉村順三の設計による現在の社屋が誕生します。「ジャパン・ハウス」と呼ばれるこのビルには、劇場、ギャラリー、語学教室などが備わっており、当然、舞台公演のプログラムも自主事業としてプロデュース・主催するようになりました。

この100年を振り返ると、ジャパン・ソサエティーが日米の相互理解に果たしてきた役割は、大変大きなものだったと思います。例えば、メディア・フェロー(日米のジャーナリストの相互派遣と現地での取材コーディネートを支援)を受けたジャーナリストには今でも大きな影響力をもっている人たちが多数います。また、アメリカの中で「ジャパン・エキスパート」と呼ばれる多くの学者たちとの長年にわたる深いネットワークもあります。

今でこそ、日米の文化の違いを理解した上で日本語を話せるアメリカ人、英語を話せる日本人も増え、また、インターネットで簡単に情報が入手できるようになりましたが、それまでは日本の水先案内人としての機能をあらゆる分野において果たせる機関はジャパン・ソサエティーだけであり、日本の最大のリソースセンターとして認識されていました。