日航ジャンボ機123便墜落

日航ジャンボ機123便墜落の黒い霧

              第1820号

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35年前の日航ジャンボ機墜落事件については、多くの関係者などが強い疑問
を持ち、さまざまな真相究明の努力を注がれてきた。

しかし、本格的な事故調査は、実は行われていない。

事故=事件が発生したのは1985年8月12日。

羽田空港1800発大阪伊丹空港行き日本航空123便が18時56分に、群
馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。

事故から2年後の1987年6月19日に航空事故調査委員会が、同機が19
78年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後のボーイング社修理
が不適切であったために圧力隔壁が破損したことが事故原因であるとの報告書
を公表して、蓋を閉じられたままになっている。

しかし、圧力隔壁が破損したのなら、機内与圧が急激に低下し、白い水蒸気の
ような気体が充満するはずであるが、生存者の落合由美氏は、

「白い霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見た
ときには、もうありませんでした。」

と証言しており、圧力隔壁破損の他の航空機事故の状況とは明確に異なってい
る。

また、圧力隔壁が破損して機体に穴が開いたのなら、機内の気圧が急低下し
て、ほとんどの乗客、荷物が機体の外に吸い出されたはずである。

実際には、外部から何らかの衝撃が加えられて尾翼が破損し、機体の操縦が不
能になったのだと考えられる。

当時の日航DC10機に乗務されていた機関士の方から連絡があり、その方の
推察内容を教えていだいた。

また、私が8月12日付記事に記述した内容に、一部誤りがあったので、この
点も訂正させていただく。

日航ジャンボ機123便が操縦不能に陥り、緊急着陸を試みようとした空港は
調布ではなく、米軍横田基地である。

横田基地に緊急着陸していれば、すべての乗客の生命が守られた可能性が高
い。

しかし、同機は横田基地への着陸を阻止されて、群馬県山中に誘導された。

そして、御巣鷹山山中に胴体着陸を試みたのだと推察される。

問題は、墜落場所が早期に確認されたにもかかわらず、人命救助措置がまった
く取られなかったことである。

「123便」に乗務したグループに所属していた元日航客室乗務員、青山透子
さんの著書

『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド、2010年
4月刊)

https://goo.gl/FmG2dF

が注目する1995年8月27日付「星条旗新聞」=” Stars and Stripes”

の、事故当時に横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロッ
ト、マイケル・アントヌッチ中尉の証言がある。

この証言を米田憲司氏の著書

『御巣鷹の謎を追う』(宝島SUGOI文庫)

https://goo.gl/uuwskt

から紹介する。

「当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進
路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のよう
なものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向け
た。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートま
で降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗く
なり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上が
り、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回
していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。
事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ
20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現
在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてるこ
とを聞いた。1時間で到着できただろう。」

「当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助
に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場まで
の方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分ま
でに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してき
た。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を
取った。

将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司
令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、
基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還す
る」と応答した。」

C130は午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れたのを確認して現場
を引き揚げた。

ジャンボ機の墜落現場は米軍機によって墜落して20分後には確認されてい
た。

そして、墜落から2時間後には米軍救援ヘリが現場に到着している。

ところが、最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午
前4時40分。

午前7時15分になって日本の捜索隊は、自衛隊のレンジャー部隊をヘリコプ
ターで吊り下ろすことを決断した。

米軍ヘリコプターによる救援活動が許可されなかった時点から11時間もたっ
ていた。

情報を寄せてくださった元日航機関士の方は、当初の一連の動きから、

「米軍の戦闘機説」

をとっているとのことだ。

米軍演習の標的機または自衛隊の標的機、ある地対空ミサイルなどの誤射によ
り日航ジャンボ機の尾翼が破損し、ジャンボ機が操縦不能に陥った。

ジャンボ機は横田基地に着陸しようとしたが、真相発覚を阻止する目的で同機
は横田基地に着陸できず、群馬県山中に誘導されて墜落した。

現場は墜落から20分後に確認されたが、翌朝7時まで救援活動が行われな
かった。

確定できていない部分が残るが、全体像はこれに近いのではないか。

闇に葬らずに真相を解明する必要がある。

上記の日航元機関士は次の事実を指摘される。

1.墜落事件の原因は大阪でのしりもちをついた時のボーイング社の整備技術
陣による胴体後部の隔壁の修理ミスにされた。

2.このことが発表される前に、ボーイング社の技術陣が来日し、日本航空の
手の整備陣を総動員し、墜落現場でまだ遺体収容中でありながら隔壁を集め
て、いち早く海上保安庁の格納庫に並べて修理ミスを発表した。

3.通常、航空機メーカーは自分たちの不利になるすべての事柄に対して、自
ら自分たちのミスであると発表することはないが、ボーイング社は率先して事
故原因が自社にあるとして、遺族補償まですると発表した。

4.垂直尾翼が相模湾で発見され、相模湾の海底の捜索が行なわれようとした
が、米軍が反対してできなかった。

5.海底の捜索を米軍が妨害したのは、ミサイルの機体後部に装備されている
APU(補助電源装置=Auxiliary Power Unit)が回収されることを恐れたため
である。

として、米軍によるミサイル誤射がジャンボ機墜落の原因であると推察され
る。

自衛隊による誤射にしろ、米軍による誤射にしろ、ジャンボ機自体の故障、ト
ラブルによる墜落とはまったく事実関係が異なることになる。

最大の問題は、墜落から20分後に米軍機が現場を確認し、米軍の救援ヘリが
現場での救難活動に入ることができたにもかかわらず、これが実施されず、実
際に自衛隊の救援活動が開始されたのが、墜落後12時間も経過した後であっ
たということだ。

生存者である日航CAだった落合由美氏は、

「墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりでは
なく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全
体からです。

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。」

「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いて
くれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞
こえなくなった」

と証言している。

墜落直後には多数の乗客が生存していた。

救援活動が直ちに実施されていれば、多数の人命が救われていたと考えられ
る。

現場に飛来した米軍機は強制的に帰還を命じられている。

到着した米軍ヘリも帰還させられている。

自衛隊機は墜落から2時間後には現場に到着しているが、公式に救援活動が開
始されたのは翌朝7時以降である。

報道では、現場の確認が難航したことになっているが、現実には午後9時に自
衛隊機が現場に到着しているのである。

地上では警察と自衛隊が、誤った場所に救援隊を誘導していた事実も明らかに
なった。

地上から現地に到着した民間人のなかに、多数の自衛隊員がすでに多数、現地
に入っていたと証言している人々がいる。

乗客の救援よりも、落下物の収集を優先していたとの疑いも浮上している。

自衛隊による誤射、あるいは、米軍による誤射がジャンボ機墜落の原因であっ
たなら、このような不自然な対応もあり得るのかも知れない。

真相を明らかにする鍵は、直接当事者の証言である。

直接当事者が事故=事件が発生した当日および翌日の事実を明らかにすること
で、「知られざる真実」が明らかになってくるはずである。

当該ジャンボ機123便に搭乗していた乗客の小川哲氏(当時41歳)が、
ジャンボ機に接近する謎の飛行物体に気がつき、それをカメラに収めていた。

この写真をパソコンで拡大するとオレンジ色になる。

画像処理の専門家による写真の検証では、

「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、こ
の物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見え
る」

との結果を得たという。

羽田を離陸した123便は、大島上空を通過し、18時24分に相模湾上空に
差し掛かったときに、大きな衝撃音に見舞われた。

既述の落合由美氏はこのときの模様を次のように証言した。

「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい
音がしました。

テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。

「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。

急減圧がなくても、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。

前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。」

「「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。

かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。」

「その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見た
ときには、もうありませんでした。

白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。

すっと消えた、という感じだったのです。」

そして、コックピットでは、

衝撃音発生直後に「スコーク77」が宣言され、

「オレンジエア」

の声が発せられた。

(フジテレビ「ザ・ノンフィクション」

https://www.youtube.com/watch?v=7poQ8oyuBQM

22分35秒以降の部分

「スコーク77」および「オレンジエア」

の発声を確認)

発声は、番組が主張する「ボディギア」ではなく「オレンジエア」である。

「スコーク77」は、元日航機関士の指摘によると、緊急事態発生を知らせる
信号で、管制も把握するという。

自衛隊機の管理下に入るものではないとのことだ。

この点は訂正させていただく。

いずれにせよ、オレンジの飛行物体を確認し、大きな衝撃音があり、スコーク
77が宣言されたということになる。

何らかの飛翔体がジャンボ機に衝突し、この衝撃でジャンボ機が尾翼と操縦能
力を失ったと見るのが妥当であろう。

機体内部の圧力隔壁損傷による事故との説明はまったく説得力を持たない。

日米政府が絡むアンタッチャブルな事故=事件である可能性が高く、真相解明
のハードルは高いが、私たちはこの「黒い霧」の中に隠れている「真実」を発
掘しなければならない。